ぼくのカリブ出張もついに最終日。
前日夜、会社幹部を日本に見送ったぼくは、朝早くに現地での経費精算を済ませた。
ぼくは、今晩、ラティーナと出逢ったカリブ海のビーチリゾートを発つことになっている。
チェックアウトの時間は、仲良くなったホテルのマネージャーのご好意で、18時まで伸ばしてもらっていたので少し余裕がある。
清算を終えたぼくは、その年の秋に予定されていたイベントの現地調整のため、課長と別のホテルに出向いた。
スプリング・ブレイクの時期からか、家族連れのアメリカ人宿泊客が多い。
それにしても、このホテルの目の前に広がるビーチもまた美しい。
この街のビーチは、場所ごとに青のグラデーションが違う。
その日、時間ごとに表情を変える。
こんな景色を好きな女性と分かち合えたら。
想像だけして、幸せな気分に浸る。
打ち合わせのあとは、ホテルに戻り、待ちに待った自由時間を楽しんだ。
日本での慢性的な激務に戻る前の束の間の休息。
ぼくは、出張中、忙しすぎてできなかったことを思いっきり楽しんだ。
まず、普段食べられない珍しい料理が並んだビュッフェをゆっくり味った。
このホテルは、オール・インクルージブだったから、ぼくは最終日にして初めて宿泊料金の元を取ったことになる。
お腹いっぱいになって食い物の恨みを晴らしたぼくは、メインエリアのビーチ降りて、白いビーチチェアに腰掛けた。
ぼくの目の前には、青々としたカリブの空と、エメラルドグリーンに輝くカリブ海がどこまでも続いている。
あくせく働いているのがバカバカしくなるような風景だ。
世界にはこんなに美しい場所が溢れているのに、ぼくは一生働き続けるだけなんだろうか?
ぼくはその景色をボーッと眺めていた。
しばらくすると疲れと満腹感のせいか、ぼくは心地よい眠気に包まれた。
突然、携帯のバイブに目を覚まされた。
誰かからのメッセージだ。
折りたたみ式の携帯を開けた。
メッセージは、ラティーナからだった。
ぼくはうれしくなってしまった。
彼女がぼくにメッセージをくれたのは初めてだったから。
ラティーナ:"¿Qué haces?"
「何してるの?」
ラティーナ:"¿Sigues de niñera?”
「まだ子守り?」
ぼく:“No. Para mi dicha, ya se fueron a su casa”
「いいや。幸い、大きな子どもたちはおうちに帰ったよ」
ラティーナ:“Yo también terminé todo”
「私も仕事が全部終わったの」
ぼく:“Ya te puedes dormir cuanto tú desees. Nadie te va a molestar”
「やっと好きなだけ寝られるね。誰からも起こされないよ」
ラティーナ:“¿Dónde estás?
「今、どこ?」
ぼく:“Yo, en la playa del Sol disfrutando los últimos momentos del sueño antes regresar a la realidad”
「太陽のビーチ。現実世界に戻る前の最後の時間を楽しんでるところ」
ラティーナ:"Yo estoy en la playa de la Luna. Ven, si quieres"
「私は月のビーチ。来ない?」
"Ven, si quieres"
「来ない?」
“Ven, si quieres”
「来ない?」
“VEN, SI QUIERES"
「来ない?」
一体、何がどうなってるんだ?
ぼく:”Vvvvvvvvv, vovovovovov, VOY”
「いいいいいいい、行くよ」
メールはちゃんと返したが、心の声は、驚きと喜びのせいで、でどもっていた。
ぼくは、ドキドキしながら、ビーチチェアから立ち上がり、太陽のビーチから、ラティーナが待つ月のビーチに歩き出した。
ぼくは、ビーチ沿いに歩いていくことにした。
一歩一歩、ぼくが歩みを進めるたびに、胸の鼓動も加速していく。
「なんかドキドキしている」
胸の高鳴りを抑えるように、敢えてゆっくりと歩を進めた。
「ダンナがいるのになんで男を呼ぶんだ?」
「東洋人に対する興味本位か?」
ぼくにはラティーナがぼくを呼び出した意図がわからなかった。
しばらく歩くとラティーナの姿が見えた。
胸の高鳴りが止まらない。
平静を装うぼく。
ぼくは、ラティーナと挨拶のベシート(besito)を交わした。
ぼくと彼女の頬が合わさる。
「汗かいてないかな?」
「会うことがわかってたら、あんな馬鹿食いなんてしなかったのに」
「5分くらいガム噛んでから来ればよかった」
そんなことを気にしながら、ぼくはラティーナのすぐ横にあったビーチチェアに腰掛けた。
ぼくが座ったのを見たラティーナは、存在感のある大きめのサングラスを外した。
白い砂の月面には、ぼくとラティーナの二人だけ。
ラティーナは、部屋から持って来た白いバスタオルを砂の上に広げて座っていた。
ジーンズ生地のタイトスカートと赤いブラウスに身を包んで。
これまで仕事で見ていた、
「キリッ」
とした印象とはまた違う。
でも、いいことばかりじゃなかった。
ぼくは、目のやり場に困ってしまった。
ラティーナのブラウスは、胸元が広く開いているし。
座っているせいで、スカートからは、太ももがかなり出ているし。
安易に視線を落とすわけにもいかない。
だから、ラティーナの瞳を見た。
こんな思いが音速域でぼくの中を駆けめぐっていたとき、ぼくはラティーナに声をかけた。
ぼく:“¿Por qué estás sola?
「一人だったんだ。」
ぼく:“¿No quieres estar con tus compañeras del trabajo?
「会社の同僚と一緒にいなくていいの?」
ラティーナ:“No. Yo crecí rodeada de hombres, y no me cuadro con las pláticas femeninas"
「私、男が多い家庭で育ったせいか、ガールズトークとかはあんまり得意じゃないの」
ぼく:¿Qué estabas haciendo en la mañana?
「午前中、何してたの?」
ラティーナ:”Dormí hasta las 11”
「11時まで寝てた」
ラティーナ:“Y después hablé con mi marido. Duré 3 horas con él”
「それからダンナと電話。3時間も話し込んじゃった」
ラティーナ:“Bueno, yo hablé 90%”
「私が9割話してただけだけどね」
ラティーナ:“Mi jefe fue mi prioridad en el último mes”
「ここ一月、上司優先だったから」
ラティーナ:"Dondequiera que andaba, recibía las llamadas de él”
「どこにいても、電話がかかってきてね」
ラティーナ:“No importaba día ni noche, estaba con mi marido o no"
「時間も関係ない。ダンナと一緒であろうがなかろうが」
ラティーナ:“¿Ves? Yo soy la que hablo, y tú solo escuchas”
「ほらね。私が一方的に話してる。あなたは黙って聞いているだけ」
ラティーナ:“A mi me pasa siempre lo mismo con los hombres”
「私いつもそうなの。男の人と話すと」
ラティーナ:“Por cierto, cuando iba al colegio salía con un medio japonés”
「そういえば、高校の頃、日本人のハーフの男の子と付き合ってたんだ」
ラティーナ:"Su madre era japonesa"
「彼のお母さんが日本人でね」
ぼくは心の中でつぶやいた。
「ラティーナはやっぱり東洋系の顔立ちが好きなのかな」
「だとしたら、別にぼくのことを特別いいと思ってるわけじゃないんだな」
ラティーナ:“¿Me estás escuchando?”
「聞いてる?」
ラティーナ:“¿Ya te aburrí?”
「もう、聞き飽きちゃった?」
ぼく:”¿Cómo crees? Para nada”
「そんなことないよ」
ラティーナは、ぼくの顔をのぞき込んで言葉を続けた。
ラティーナ:“Me hubiese gustado tener hijos con tus ojos”
「あなたの目をした子どもが欲しかった」
ぼく:“Tendrás que cambiar a tu marido por mi”
「じゃあ、ダンナとぼくを交換しないとね」
と言いかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
代わりに、笑いながら当たり障りのないことを言った。
ぼく:“Ya es tarde, ya que te casaste”
「もう結婚しちゃったから、それはかなわないね」
ぼく:“¿Por qué te casaste con tu marido tan joven?”
「なんでダンナと結婚したの?結婚するには結構若いよね?」
意地悪に聞こえないように、軽いトーンで。
ラティーナ:“Porque al conocerlo supe que era él”
「出逢った瞬間に彼だとわかったの」
ラティーナ:“Es algo que tú sientes cuando conozcas a la persona indicada.
「運命の人に出逢ったら何か感じると思うの」
ラティーナ:"Algo que te dice tu instinto"
「本能が教えてくれる」
ぼくの心は、
「あなたの目をした子どもが欲しかった」という言葉を聞いて、天まで昇っていた。
でも、
「出逢った瞬間に彼だとわかった」という言葉で、また現実世界に引き戻された。
ラティーナにそう思わせる男って、どんなやつなんだろう?
ぼくは、心の乱れを悟られないように、夕日がまぶしいふりをして、必要以上に目を細くして、ラティーナを見つめていた。
ラティーナ:"Ya vete, porque el vuelo se puede adelantar”
「もうそろそろ行った方がいいんじゃない?フライトが早まることもあるし」
ラティーナ:“Una vez me dejó el avión y tuve que viajar 5 horas en auto apretado”
「私、前に飛行機に置いていかれたことがあって、5時間ギュウギュウ詰めの車で移動したことがあるの」
ぼくには、わからなかった。
ラティーナの気持ちが。
一体、彼女はぼくに何を求めているのだろう?
いや、全てはぼくの自意識過剰のせいで、何も求めていないかもしれない。
ぼくが勝手に都合のいい解釈をしているだけかもしれない。
「それでも、ラティーナとキスをしたい」
「それでも、ラティーナを強く抱きしめたい」
ぼくの心はそんな熱い衝動で燃え上がっていた。
ぼくの本心は、そう心の中で叫んでいた。
ラティーナと出逢ってからの経緯。
ぼくが感じ取った、「月のビーチ」という二人だけの空間を包む雰囲気。
ぼくは、ラティーナもぼくに何か感じているんだと確信めいたものを感じていた。
でも、ぼくの中に住む「善人」は、ぼくにこう諭した。
ラティーナにはダンナがいる。
ぼくは、ダンナとは他人。
ダンナには何の義理もない。
でも、ぼくがラティーナのダンナだったら。
ぼくは、基本的に自分がされたくないことを誰かにしたくない。
その誰かが、全く知らないあかの他人であっても。
女性がいくら「その気」であったとしても、その女性が不幸にならないように配慮する。
それが男のつとめじゃないのか?
「善人」の声を打ち消すように、「強い衝動」が再びぼくに問いかけた。
「引っぱたかれてもいいから、キスして抱きしめたらいいじゃないか?」
「それが正直な気持ちなんだろう?」
「お前の勘違いなら、引っ叩かれるだけなんだから!」
今思い返せば、結局、ぼくは「ヘタレ」だった。
最後は、「全部、ぼくの気のせいだ。自意識過剰だ」
中学の頃から、ぼくの心の中に住み着いている「弱気」に身を任せて、波風が立たない安全パイを選択した。
いつもは、憎くて仕方ないはずの「弱気」なのに。
ぼく:“Bueno, creo que llegó la hora de despedirte"
「じゃあ、そろそろ行くわ」
ぼくは、重い腰を持ち上げ、ラティーナの体をぼくの方に軽く引きつけて、額に別れのキスをした。
気持ちが高ぶっていたせいか、軽くするはずだったキスに思わず気持ちがこもってしまう。
後にも先にも、こんなに複雑な気持ちになったキスはない。
ラティーナと別れる苦味。
自分の気持ちに正直になれなかった悔しさ。
恋の甘さ。
社会的に正しいことをしたという清々しさ。
そんな感情が混ざり合っていた。
このキスを思い出すたびに、ぼくの心は今でも締めつけられる。
たかが、「オデコ」へのキスなのに。
ぼくの唇がラティーナの額に触れてから数秒が流れただろうか。
ぼくは、ラティーナを抱きしめた腕をほどきながら言った。
ぼく:“Adiós”
「じゃあね」
ラティーナが、何か言ったのか。
どんな表情をしていたのか。
ぼくはよく覚えていない。
気のある仕草を見せられたら、自分を制御できないと思ったから。
あえて見ないようにしたのかもしれない。
ぼくはさっと振り返って、ビーチから宿泊棟に続く階段を登った。
後ろを振り返らないように早足で。
部屋で急いで荷物をまとめたぼくは、会社の先輩と空港に向かった。
空港に向かう車中。
ぼくの心の中で共鳴するのは、
「本当にあれでよかったのか」
「カッコつけただけじゃないか」
「だから、お前はいつも「いい人」止まりなんだ」
という、過去にも何回繰り返したかわからない、いつもの情けない自問自答だった。
Continuará…
(次回へつづく)
ラティーナに恋をした日本人トロバドール 〜ラティーナに捧げる愛の詩〜
ネイティブのようにスペイン語を操る日本人、早川優。 しかし彼は、ラテンのノリとは無縁の内向的な文学少年だった。 そんな内気な文学少年が、出張先で出逢ったラティーナ(中南米某国の女性)との恋を通じて、日本人でありながら、スペイン語で愛の詩(うた)を捧げるトロバドール(吟遊詩人)へと成長を遂げるストーリー。
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